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2012年05月28日

私の家族/マイスター、マイマザー

 友達と話していて、自分たちの家族の話題になると、私はいつも身構えてしまう。小さい頃は、4人兄弟であると告白することさえ恥ずかしかった。親が離婚していると聞いて、なんかごめんね、と言われると、どう返せばよいのかは今でもわからない。
 堂々と、人に話せるような家庭ではないのかもしれないと思ってしまう自分が嫌になるから、余計、家族の話はしたくなかった。
 でも、敢えてしなければならないのだとすれば、私は母の話をしようと思う。幼いころの記憶に、母はほとんど登場しない。たとえば、部屋の隅でアイロンをかける豊かな髪の黒さ。一緒に道を歩くときに繋いだ、手のあたたかさ。父親の暴言を受ける、静かな姿。
 一体、どうやって4人の子供を抱え引越しをしたのか。一体、いつ働いて私たちを食べさせてくれたのか。あいまいなまま、私は育ってしまった。だから、思わず「ジュラシックパー・・」と呟いてしまうようなボリュームのおしりを身にまとい、その言葉を聞いて笑ったり怒ったりする今の母と、記憶の中の母が、私の中で一致しない。同じ人物とは思えないほど、今、目の前にいる私の母は、表情豊かで、元気で、少しふくよかだ。
 2回りも3回りも年の離れた、若いハリウッド俳優の載ったポスターを嬉しそうに壁に飾る様子や、オリジナルの体操を毎日一生懸命やる表情、テレビをつけてはすぐに寝る、仕事帰りのその疲れた顔も、全部好きだと言える。3年ほど前に、私は母の背を越えてしまった。ふざけて抱っこするみたいに持ちあげると、見た目よりはるかに軽かった。
 最近、何気ない話もしてくれることが増えてきたように思う。そのぶん、ちょっとしたことで言い合いをすることも増えた。でも、それも含め私を、もう自分が食べさせてやる子供ではなく、1人の人間として対等に接してくれているのかと思うと、少しだけ、自分が誇らしい。
 これからは、私が母に何かしてあげる番だ。でも、ごめんなさい。ジョニー・デップとの子供はつくれません。  


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2012年05月26日

私の家族/あぶちゃん

 私の祖父あぶちゃんは、いつも死に急いでいる気がする。煙草をカートンで買い、一日何箱も吸う。毎日、焼酎を浴びるように飲んでいる。
 昔、母の従姉妹が幼い頃。三郎という名前が言えず、三郎の"さぶ"が"あぶ"になった。だから、あぶちゃん。
 以前は、ここまで酷くなかった。たぶん、あの事故があったからだ。私が高校一年の時だ。夏休みの終わり、お昼過ぎ、家にいる母に電話がかかってきた。祖父が大火傷を負ったという。祖母がパニックになり、助けを119番ではなく、母にしてきたのだ。助けを求められた母は、少し慌てながらも冷静に「私じゃなくて、最初に、救急車を呼ばないけんやろ」と携帯
に向かって、叫んでいた。
 私はたまたま居間でボーっとしていた。あわてて外出の準備をする母を見て、不思議に思った。家から出て行くとき、母は捲くし立てるように「あぶちゃんが火傷したけん、病院行ってくる」。そう言って、出て行った。
 その夜、祖父の火傷の原因を聞いた。庭で木の枝や葉っぱを燃やしていた時、混合油とガソリンを間違えてかけてしまったという。確かに、あぶちゃんはよく庭で物を燃やしていたのだ。「何をしとんの、あぶちゃんは!」と、私は思った。祖父の姿を見るまでは。
 学校も始まり、事故から一週間ほど経ったころ、お見舞いに行った。あぶちゃんは集中治療室でたくさんのチューブに繋がり、全身が包帯に巻かれて白かった。軽傷ですんだ顔だけが見ることができた。意識はなかった。母が、私が来た事を告げると、かすれた声でぽつり、ぽつりと言葉を発した。
 その時の情景と気持ちは、忘れようにも忘れられない。何度も手術を繰り返し、あと1割の皮膚が駄目になっていたら、死んでいたと医者から言われたという。そんな容態から徐々に回復していった。今では元気を取り戻し。とても饒舌だ。事故前よりも、体に悪いものが増えたけれど、あぶちゃんが生きているだけで私は嬉しい。  


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2012年05月26日

私の家族/寡黙な背中

 父は昔から寡黙な人物だった。一緒に笑った記憶もないし、逆に怒られた記憶もない。覚えているのは、私に背を向けて座っている父の姿だけだった。
 物心ついた時から、父とあまり会話をしていなかった。喋ることと言えば、「おかえり」「ただいま」という挨拶くらいで、父の仕事が休みの日曜日は、私はいつも自分の部屋でこもってばかりだった。
 幼い頃の苦い記憶は、今でも苦い。父兄参観で、クラスメイトの明るいお父さんたちから浮きまくっていた父が、私にとって何よりのコンプレックスだった。そんな父を、私はいつしか遠ざけるようになった。別に喋ったところで話題などないわけで、父と会話しないことを気にしてなどいなかった。父も同じ気持ちでいるのだろうと思い込んでいた。正確には、思い込んでいるだけだった。
 高二の冬、修学旅行で東京を訪れた。めったに味わえない都会は本当に楽しく、家のことなど忘れて、友達とはしゃいでいた。大分に帰る前日の夜、ホテルで何気なく開いた携帯に、母からメールが一通届いていた。「明日、気をつけて帰ってきなさいよ。お父さん、心配してるから」。私は目を疑った。父が私のことを心配するなど、想像も出来なかったからだ。
 帰宅した夜、母はまだ家に帰っていなかった。私を出迎えたのは、いつものように、私に背中を向けて座った父だった。いつものように「ただいま」とだけ言って、階段を上がろうとした。その時だった。「東京、楽しかったか?」。久しぶりに聞いた、父の疑問文だった。私はとっさに「うん」と答えた。父も「そうか。良かったな」とだけ言った。
 気のせいか、いつもの寡黙な背中が、小さくなったように思えた。  


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2012年05月25日

私の家族/実は

 私を花子(仮名)、私の弟を太郎(仮名)とする。「おれ太郎で!」「あたし花子で!」。服装を交換し、親に向かってお互いの名前を名乗る。男女の性差の少ない幼い頃だからできた、入れ替わりごっこ。親からすればバレバレで、すぐに「何しよんの」と言われるのだが、そんなこと、私たちには関係ない。私の気分はすっかり太郎。入れ替わりごっこはとても楽しくて、何度も繰り返した。
 私と太郎は、年子の姉弟である。太郎が小学生までの間は毎日のように、入れ替わりごっこをして遊んでいた。とても仲がよかった。仮にも私は年上。それをわかっていた太郎は、こんなばかみたいな姉を、それでも尊敬してくれていた(と思う)。親が昔撮ったビデオを見返してみても、よくふたりで一緒にいるし、お姉さんぶっている私の後に、太郎はとても素直についてきた。
 しかし、太郎が中学生になったあたりから、ふたりの関係は180度変わりはじめた。私より高くなる背。低くなる声。そして、太郎は反抗期に突入した。私だけでなく、家族みんなに対して、太郎は冷たくなった。必要以上に口はきかないし、とても短気で、たまに会話したかと思えば、すぐに暴言。昔の太郎が嘘のようである。昔は「花子ちゃん」と呼んでくれていたのに、いつからか「花子」と呼び捨てされるようになった。
 今さら、「ちゃん」付けされても正直気持ち悪いが、そうではなくて、気持ちの問題である。仲が良かった頃のことなんて、もうあまり思い出せない。そんな状態のまま、今まできてしまった。それがあまりにも続くので、こちらも素直になれず、冷たく接するようになってしまった。今ではふつうの兄弟よりも、明らかに仲が悪い。最悪の関係だ。
 最近、太郎に彼女ができた。家のみんなには冷たいくせに、彼女にはデレデレだ。なんかちょっとむかつく。でもどうか、彼女には家でするような最低な態度をとりませんように。私たちには、もう昔みたいに優しくしてくれなくても大丈夫。今の太郎が急に優しくなったって、気持ち悪いだけだろうと思うから。その分、彼女には目いっぱい優しくしてあげて欲しい。実は少しだけ、さみしいけれど。  


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2012年05月25日

私の家族/私の祖母

 私の家族は、父母と祖母、兄と弟と私の六人家族だ。兼業農家のようなものをやっている。父と母にはそれぞれ仕事があり、基本的には祖母一人で、畑仕事をしている。祖父は私が産まれる前に亡くなっており、70歳を過ぎる祖母がほぼ一人で、畑や田んぼの手入れをして
いる状態だ。
 大きい畑ではないが、お茶やお米は毎年親戚に手伝ってもらいながら収穫する。私も毎年手伝っているが、数人がかりでもきつい作業だ。その広さをいつも祖母はたった一人で管理している。畑仕事には休みはなく、天気が酷い日以外は、毎日のように外へ出て作業をしている。さらに、母は働きに出ているので、いない間の家事をするのも祖母だ。
 そんな祖母の働きを見ていると、いつも申し訳なく思う。本当は、近所の友だちともっとゆっくり過ごしたいのではないか。毎日をのんびり過ごしたいのではないか、そう考えると胸が痛む。
 私がまだ小さい頃は、学校から帰ったら、兄や弟と畑仕事の手伝いをすすんでやっていた。しかし、成長するにつれて、いつの間にか手伝うことをしなくなり、今では頼まれなければ、やることはない。一人暮らしを始めた今は、手伝いたくても簡単にはいかなくなった。
 現在、実家には父母と祖母の三人しかいない。親にも仕事があるので、祖母は今も一人で畑仕事をやっている。次に実家に帰ったら、できるだけ手伝いをして、負担を軽くしたい。そして、今まで一度も伝えたことがない日ごろの感謝を伝えようと思う。  


Posted by 芸短ネット演習 at 05:13Comments(0)

2012年05月25日

私の家族/お父さん

 顔、性格、考え方、私はお父さんとよく似ている。そして、それらのほとんどが、私のコンプレックスとなっている。私とお父さんは、まるで磁石のように、しょっちゅうはじき合っている。
 私は自分の性格が嫌いだ。とても短気で、すぐケンカ腰になり、機嫌が悪くなると、よく嫌味なことを言ってしまう。だから、お父さんとも馬が合わない。こんなのが家に二人もいて、お母さんは本当に大変だと思う。高校の頃は、十回中八回は口論をしていた気がする。なぜ、お母さんはこの人と結婚したのだろう、と疑問に思うことも稀ではなかった。
 しかし最近、その理由が分かったような気がする。。私はついこの前まで受験生だった。いろんな壁に何度もぶつかって、乗り越えたものもあれば、未だに壁として残るもの、更なる壁もできてしまった。自分なりに勉強しているはずなのに、それ相応の結果が出ないはがゆさで、塾の帰り道、一人で泣いたのは一度や二度ではない。「自分が子供を生んだら、自分のように辛い思いはしてほしくない」とまで考えるようになっていた。
 そんなある日、珍しく、お父さんと長話をする機会があった。その時、お父さんの言った言葉が忘れられない。「俺は苦労してきた。社会は本当に厳しい。お前にはたくさん苦労してほしい。たくさん辛い思いをしてほしい」。その言葉に、親の優しさを感じた。私は同じことを自分の子供に言えるだろうか。
 唯一、私たちが似てないところといえば、お父さんは努力家で、私はそうでない、ということだ。私には継続する力がない。どうせなら、とことん似てやろう、と思う。子供が生まれ、挫折したときは、同じ言葉を言える親になりたい。  


Posted by 芸短ネット演習 at 05:09Comments(0)

2012年05月25日

私の家族/日記帳

「おばあちゃん、なんしよんの?」「ん? 日記帳探しよん。今年から、日記つけようと思っちょんのよ。でも、たくさんあって迷うなぁ」。
 祖母はそう言って、書店の棚一面に並んだ日記帳を、気難しそうな顔で見つめた。「これなんかいいんやない?」。私は一冊の日記帳を祖母に手渡した。2年分の日記をつけれるというものであった。「これやったら、買い直さんですむよ」。そう言うと、祖母はにっこりと微笑んで、「そうやなぁ。ありがとうねぇ」と、その日記帳を買った。
 その日の夜から、祖母は日記をつけ始めた。そして、書き終わると、大事そうに両手で持ち、タンスにしまった。あまりにも大事にしてたので、私はだんだん日記帳に何が書いてあるか気になってきた。そして、見てはいけないと分かっていながらも、まだ小学生だった私は、「いつかは見てみたい!」という気持ちになった。
 1年とちょっとすぎた、ある日。用事か何かで祖母の寝室に行ったとき、机の上に目がいった。そこには、あの日記帳が置いてあった。その瞬間、頭の中に何かが走った。そして気付いた時には、あの日記帳を開いてしまっていた。
 花に水やりをしたこと、私達がお正月で帰ってきたこと・・。そこに書かれていたのは、何気ない日常のことであった。3分の1くらい読んだところで、私は自分がやってしまったことの重大さにやっと気づいた。どうして、人の日記を見てしまったのだろう…。体中に冷んやりとした汗がふきだした。周りに誰もいないのを確認すると、日記帳を元あった場所にそっと戻し、一目散に駆け出した。ごめんなさい!ごめんなさい!そう心の中で何度繰り返しながら…。
 あれから、何年もの月日が過ぎた。今だに、私はあの日記帳のことを誰にも話せずにいる。祖母はこの事を知ったら、どんな顔をするだろうか。私の心の中には、ぽっかりと黒い穴が空いたままだ。  


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2012年05月13日

私の家族/弟

 私を花子(仮名)、私の弟を太郎(仮名)とする。
 「おれ太郎で!」「あたし花子で!」。服装を交換し、親に向かって、お互いの名前を名乗。男女の性差の少ない幼い頃だからできた入れ替わりごっこ。親からすればバレバレで、すぐに「何しよんの」と言われるのだが、入れ替わりごっこはとても楽しくて、何度も繰り返した。
 私と太郎は年子の姉弟である。太郎が小学生までの間は毎日のように、入れ替わりごっこのようなくだらないことをして遊んでいた。とても仲がよかった。
 しかし、太郎が中学生になったあたりから、ふたりの関係は180度変わりはじめた。私より高くなる背。低くなる声。そして太郎に訪れた反抗期。私だけでなく、家族みんなに対して、弟は冷たくなった。必要以上に口はきかないし、暴言も吐く。昔の太郎がウソのようである。 昔は「花子ちゃん」と呼んでくれていたのに、それもいつからか、「花子」と呼び捨てされるようになった。そんな状態のまま、今まできてしまった。あまりにも長く続くので、こちらも素直になれず、冷たく接するようになってしまった。
 最近、太郎に彼女ができた。太郎は口が悪いのでとても心配である。どうか、彼女には私たちにするような態度をとりませんように。私たちは太郎をわかっているから、昔みたいに優しくしてくれなくても大丈夫。でも、彼女には目一杯優しくしてあげてね。実は少しだけ、さみしいけれど。  


Posted by 芸短ネット演習 at 06:49Comments(0)

2012年05月13日

私の家族/母の話

 友達と話していて、自分たちの家族の話題になると、私はいつも身構えてしまう。小さい頃は、4人兄弟であると告白することさえ恥ずかしかった。親が離婚していると聞いて、なんかごめんね、と言われると、どう返せばよいのかは今でもわからない。
 堂々と、人に話せるような家庭ではないのかもしれないと思ってしまう自分が嫌になるから、余計、家族の話はしたくなかった。
 でも、敢えてするなら、私は母の話をしようと思う。幼いころの私に、母の記憶はあまり残っていない。たとえば、部屋の隅でアイロンをかける長い髪。一緒に道を歩くときに繋いだ、大きな手。そして、一番に思い出すのは、父親の罵倒を受けている姿だ。
 一体どうやって私たち4人の子供を抱えて、引越しをしたのか、一体いつ働いて私たちを食べさせてくれていたのか、あいまいにしか覚えていない。
 だから、思わず「ジュラシックパーク......」と呟いてしまうほどボリュームのあるおしりを持ち、それを聞いて笑ったり怒ったりする今の母と、記憶の中の母が、私の中で一致しない。同じ人物とは思えないほど、今、目の前にいる私の母は表情豊かで、いつも元気で、少しふくよかだ。
 3年ほど前に、私は母の背の高さを超えてしまった。ふざけて抱っこするみたいに持ちあげると、子供みたいにきゃあきゃあはしゃぐ母を、私はとてもいとおしいと思った。2回りも3回りも年の離れた若い俳優の載ったポスターを嬉しそうに飾る様子や、勝手につくった体操を毎日一生懸命やる姿、テレビをつけてはすぐに寝る、仕事帰りのその疲れた顔も、全部好きだ。
 今年の春に母と姉と私の3人で行ったお花見で、母は「いつか、昔住んでいたところにもう一度住みたい」と言った。母から、なにか大きな希望を聞かされるのは初めてだった。驚いたけれど、母からこのような話をされることが、なによりも嬉しかった。絶対に叶えるから、楽しみにしててね。  


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2012年05月13日

私の家族/寡黙な背中

 父は昔から寡黙な人物だった。
 一緒に笑った記憶もないし、逆に、怒られた記憶もない。覚えているのは、私に背を向けて座っている父の姿だけだった。
 物心ついた時から父とあまり会話をしていなかった。喋ることと言えば「おかえり」「ただいま」という挨拶くらいで、父の仕事が休みの日曜日は、私はいつも自分の部屋でこもってばかりだった。
 幼い頃の苦い記憶は今でも苦い。父兄参観で、クラスメイトの明るいお父さんたちから浮きまくっていた父が、私にとって何よりのコンプレックスだったことを覚えている。
 そんな父を、私はいつしか遠ざけるようになった。別に喋ったところで話題などないわけで、私は父と会話しないことを気にしてなどいなかった。そして同じように、父も同じ気持ちでいるのだろうと思い込んでいた。正確には、思い込んでいるだけだった。
 高二の冬、修学旅行で東京を訪れた。めったに味わえない都会は、本当に楽しく、家のことなど忘れて友達とはしゃいでいた。
 大分に帰る前日の夜、ホテルで何気なく開いた携帯に、母からメールが一通届いていた。内容は「明日、気をつけて帰ってきなさいよ。お父さん、心配してるから」というものだった。私は目を疑った。父が私のことを心配するなど、想像も出来なかったからだ。
 帰宅した夜、家に母はまだ帰っていなかった。私を出迎えたのは、いつものように、私に背中を向けて座った父だった。私はいつものように「ただいま」とだけ言って、階段を上がろうとした。その時だった。「東京、楽しかったか?」。久しぶりに聞いた、父の疑問文だった。私はとっさに「うん」と答えた。父も「そうか。良かったな」とだけ言った。
 気のせいか、いつもの寡黙な背中が、小さくなったように思えた。  


Posted by 芸短ネット演習 at 06:41Comments(0)

2012年05月13日

私の家族/あぶちゃん

 私の祖父あぶちゃんは、いつも死に急いでいる気がする。煙草をカートンで買い、一日何箱も吸う。毎日、焼酎を浴びるように飲んでいる。以前はここまで酷くなかった。たぶん、あの事故があったからだ。
 昔、母の従姉妹が幼い頃。三郎という名前が言えず、三郎の"さぶ"が"あぶ"になったのがきっかけだ。だから、あぶちゃん。私が高校一年の時だ。夏休みの終わり、お昼過ぎ、家にいる母に電話がかかってきた。
 祖父が大火傷を負ったという。祖母がパニックになり、助けを119番ではなく、母にしてきたのだ。助けを求められた母は、少し慌てながらも冷静に「私じゃなくて、最初に、救急車を呼ばないけんやろ」と携帯に向かって、叫んでいた。
 私はたまたま居間でボーっとしていた。あわてて外出の準備をする母を見て、不思議に思った。家から出て行くとき、母は捲くし立てるように「あぶちゃんが火傷したけん、病院行ってくる」。そう言って、出て行った。
 その夜、祖父の火傷の原因を聞いた。庭で木の枝や葉っぱを燃やしていた時、混合油とガソリンを間違えてかけてしまったという。確かに、あぶちゃんはよく庭で物を燃やしていたのだ。「何をしとんの、あぶちゃんは!」と、私は思った。祖父の姿を見るまでは。
 学校も始まり、事故から一週間ほど経ったころ、お見舞いに行った。あぶちゃんは集中治療室でたくさんのチューブに繋がり、全身が包帯に巻かれて白かった。軽傷ですんだ顔だけが見ることができた。意識はなかった。母が、私が来た事を告げると、かすれた声でぽつり、ぽつりと言葉を発した。
 その時の情景と気持ちは、忘れようにも忘れられない。何度も手術を繰り返し、あと1割の皮膚が駄目になっていたら、死んでいたと医者から言われたという。そんな容態から徐々に回復していった。今では元気を取り戻し。とても饒舌だ。事故前よりも、体に悪いものが増えたけれど、あぶちゃんが生きているだけで私は嬉しい。  


Posted by 芸短ネット演習 at 06:38Comments(0)

2012年05月13日

私の家族/祖母

 父母と祖母、兄と弟と私の六人が、私の家族だ。
 我が家は兼業農家のようなものだ。父母はそれぞれの仕事があり、祖母が畑仕事をしている。祖父は、私が産まれてくる前に亡くなった。70歳を過ぎた祖母一人で、畑や田んぼの手入れをしている。
 しかし農家と言っても、とれた野菜を出荷することは少ない。畑よりも田んぼの面積の方が多く、収穫した米は自給自足するか、親戚に安価で提供するくらいである。お茶の栽培もしているが、それも自宅と親戚用で、よそへ販売することはない。
 しかし、それらの仕事を一人でするには、畑も田んぼもかなりの広さになる。毎年、田植えや稲刈りやお茶摘みを手伝うのだが、数人でやっても広いと思える畑を、祖母は一人で管理している。本当にきつく、つらい仕事なのだと実感した。
 祖母は朝早く起き、夜は遅くまで、毎日畑仕事をやっている。文句のひとつも言わない。母は働きに出ているので、母がいない間の家事をするのも祖母だ。
 祖母のはたらきを見ていると、いつも申し訳なく思う。本当は、もっと近所の友だちとゆっくり過ごしたいのではないか、毎日をのんびりしたいのではないかと、胸が痛くなる。
 小さい頃は、学校から帰ったら、兄や弟と畑仕事の手伝いをすすんでやっていたが、いつの間にかそれもなくなり、今では頼まれたときにしか手伝いをしなくなった。そのうえ今、私は一人暮らしをしているので、手伝いたくても、簡単に手伝いができなくなってしまった。
 現在、実家には、父母と祖母の三人しかいない。親にも仕事があるので、祖母は今も一人で畑仕事をやっている。次に実家に帰ったら、できるだけ仕事の手伝いをして、負担を軽くしたい。そして、感謝を伝えようと思う。  


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2012年05月13日

私の家族/ハナ

 私の家族の、いや、近所のアイドルとも言うべき犬がいた。「ハナ」という名前の、雑種の勝ち気な雌わんこだ。
 僕が物心つくと同時に、我が家にやって来た。出先から帰ってくると、ちょこんとお座りして、しっぽを振って出迎えてくれた。ハナの散歩を僕が任されるようになったのは、小学校高学年のときだ。毎日毎日、見た目によらず力の強いハナに引きずられるようにして、散歩に行った。
 僕が散歩をするようになって、ハナが変わったことは、川に入るようになったことだ。体を洗おうとすると、首輪を外してまで逃げ出していたハナが、夏の暑い時期には、いつも川に飛び込むようになった。
 数年経ったある日、映画を観に出かける前に、いつものようにハナを連れて散歩に出た。11月の夕方、冷え込んでいたのに、なぜか、ハナは川に飛び込んだ。ちょっと不思議に思ったが、あまり深く考えずにその日の散歩を終えた。
 次の日。夕方、患者で混む耳鼻科にいると、母から「ハナの様子がおかしい」と連絡があった。急いで家に帰ると、ぐったりしたハナの姿があった。ハナは僕の姿を見ると、よろよろ起き上がって、いつものお座りをした。とりあえず、頭を撫でてやることしかできず、母に「父さんが帰るまで様子を見るので、とりあえず耳鼻科に戻り」と言われ、何かあったら、また連絡するように行って家を出た。
 次に電話を受けて帰ったとき、ハナは動かなくなっていた。ハナが倒れていたのは、車庫の入り口だった。家族が車で帰ってきたときに、ハナがいつもしっぽを振って、出迎えにきていた場所だった。忌わの際まで家族を出迎えようとしていたのか、と思うと、また泣きたくなった。
 翌日、火葬業者が遺体を引き取りに来たときは、兄の友達までハナの見送りに来てくれた。みんなが泣いていた。とくに自分は家族を失うという経験は初めてで、ショックは大きかった。死んだ原因は、高熱だったそうだ。だから前日、冷え込んでいたにもかかわらず、川に飛び込んでいたのだと思うと、その時、異変に気づいていれば、と後悔が募った。
 いま、ハナは庭の隅のハナユズの下に眠っている。ハナの名前が入った木だ。ちょこんと置かれた墓石代わりの花瓶が、帰ってきた家族をお座りをして出迎えていたハナの面影を感じさせる。  


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2012年05月13日

私の家族/お父さん

 顔、性格、考え方、私はお父さんとよく似ている。そして、それらのほとんどが、私のコンプレックスになっている。私とお父さんは、まるで磁石のように、しょっちゅうはじき合っている。
 私は自分の性格が嫌いだ。とても短気で、すぐケンカ腰になり、機嫌が悪くなると、よく嫌味なことを言ってしまう。だからもちろん、お父さんとも馬が合わない。こんなのが家に二人もいて、お母さんは本当に大変だと思う。高校の頃は、十回中八回は口論をしていた気がする。なぜ、お母さんはこの人と結婚したのだろう、と疑問に思うことも稀ではなかった。
 しかし最近、その理由が分かったかもしれない。私は、ついこの前まで受験生だった。いろんな壁に何度もぶつかって、乗り越えたものもあれば、いまだに壁として残るもの、更なる壁もできてしまった。自分なりに勉強しているはずなのに、それ相応の結果が出ないはがゆさで、塾の帰り道に一人で泣いたのは、一度や二度ではない。「自分が子供を生んだら、自分のように辛い思いはしてほしくない」とまで考えるようになっていた。
 そんなある日、珍しく、お父さんと長く話をする機会があった。その時、お父さんの言った言葉が忘れられない。「俺は苦労してきた。社会は本当に厳しい。お前にはたくさん苦労してほしい。たくさん辛い思いをしてほしい」。私は同じことを自分の子供に言えるだろうか。しかし、その言葉には親の優しさを感じた。
 唯一、私たちが似てないところといえば、お父さんは努力家で、私はそうでないということくらいだ。私には継続する力がない。しかし、どうせなら、とことん似てやろう、と思う。子供が生まれ、挫折したときは、同じ言葉を言える親になりたい。  


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2012年05月13日

私の家族/弟

 私には3つ下の弟がいます。この春から、大学生になりました。
 弟は2月に四国の大学を受験し、帰る時に乗るバス停を間違え、乗るはずだったバスに乗ることができませんでした。福岡経由で鹿児島に帰るつもりが、帰ることができなくなってしまい、もう一泊しないといけなくなってしまい、私や両親は心配しました。
 弟は交番に道を聞きに行った時、その事情を話して、交番に一泊させてもらえることになりました。「親切なお巡りさんで良かったね」と笑いながら、弟と電話で話をしました。
 大分に私がいるので、大分経由で帰ることにまりました。お巡りさんが交通費を全部調べてくれたらしく、本当に親切なお巡りさんで良かったと思いました。
 次の日の夜、弟が大分に着き、何泊かするということで、いろいろと遊びに行きました。これから大学生になるので、洋服や靴を買ってあげたりして、久しぶりに弟と遊びました。
 弟もこれから県外の大学に行くので、お互い休みで鹿児島に帰らない限り、会う機会もなくなってしまいます。少し寂しいなと思いながらも、弟の高校の話や私の大学の話、そして単位の話など、いろいろアドバイスしてあげました。
 弟は晴れて受験した大学に合格し、入学式は両親と祖母も一緒に、入学式へ出ました。良く考えると、家族四人揃ってどこかへ旅行するのは、小学校以来でした。春休みは鹿児島へ帰省しなかったので、久しぶりに家族と会い、四国へ行くのを私はとても楽しみにしていました。 大分の私の家に迎えに着てもらい、臼杵からフェリーに乗り、愛媛県へ着きました。道後温泉へ行きました。それからもいろんな所へ寄り、観光しながら楽しみました。
 入学式が終わって、すぐフェリーの時間があったので、私たちは帰りました。帰った当時は、弟のことを皆心配していましたが、入学して約1か月が経ち、友達や寮の先輩と仲良くやっているみたいで、とても安心しました。大学四年間、悔いのないように大学生活を楽しんでもらいたいと思います。  


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2012年05月13日

私の家族/姉

 私は姉が嫌いだ。小さい頃から何をしても比べられる。私はそれが嫌いで、仕方なかった。
 姉と私との勝負は、何においても、いつも姉が勝つ。特に勉強では、九州大学を出ている姉に敵うことはない。私は、姉が勉強する姿をほとんどみたことがない。大学受験もそうだが、普通の試験でもだ。姉は楽々と自分の思い描いたように、自分の人生を送っているように見える。私はそんな姉と自分を比べては、悔しくて泣いた。その度に姉を嫌った。
 だが、受験を目前に控えた私に、姉はいつも電話をくれた。仕事で疲れていても、話を聞いてくれた。時には、自分の受験との戦いの話もしてくれた。苦しいのは皆同じ。そう励ましてくれた。
 生まれた時からずっと一緒にいて、世話をしてくれた姉、我が儘を聞いてくれる姉。これまで当たり前のことに気づくことができなかった自分が、恥ずかしく思えた。お姉ちゃん、いつもありがとう。
  


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2012年05月13日

私の家族/家族がいなくなった日

 あなたは家族をなくしたことがあるだろうか。長い間、生活を共にしてきた者が突然いなくなった時の喪失感は、実際に経験してみないとわからない。人との離別はもちろんだが、ペットとの別れも辛いものである。私も昨年の夏、家族の一員であったウサギの一郎と死別した。
 一郎は私が11歳の頃にやってきた。母の知り合いが飼っていたウサギが子供を産み、その一匹を譲り受けたのだった。家に来たばかりの一郎は、手のひらに乗るほど小さく、柔らかい真っ白な毛に包まれていた。ドワーフライオンと言う種類のウサギで、ライオンのようなたてがみが特徴だった。
最初は緊張していた一郎も、月日が経つとともに、家に馴染んでいった。ケガや病気もしなかった。家の中を走り回っては抜け毛を散らし、物をかじってイタズラしていた。
 異変が起きたのは、昨年の5月からだった。ウサギの寿命は5年から10年ほどである。7才になった一郎は老化が進み、筋肉が衰え、「寝たきり」の状態となった。
6月に入る頃には、昔の元気な姿は完全に消えていた。歩いてトイレに行けないので、その場で糞尿をもらす。一郎の体は常に汚れていた。白く柔らかかった毛は茶色く変色し、糞や尿がこびりついて硬くなっていた。自分で餌を食べに行くことも出来ず、家族がそれを補助した。一郎は毎日苦しそうに足をばたつかせていた。私はそれを見るのがつらかった。
7月7日の朝、一郎は二度と動かなくなった。市役所の人が遺体を取りに来たが、学校があったため、一郎を見送ることはできなかった。家に帰った後、きれいに片付けられ、何もなくなった一郎の場所に立って、私はずっと泣いていた。
7月7日、織姫と彦星の再会を祝う日は、私たち家族と一郎が永遠に別れた記念日となった。今年も来年も10年後も、この日に思い出すことは、一郎と過ごした日々のことだろう。  


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2012年05月13日

私の家族/一人っ子の私から

 父と母と私の3人家族だ。父は優しく、人情に溢れた人である。母は思いやりがあり、とても常識的な人である。子供である私が言うのも変だが、二人ともとても笑顔が素敵だ。
 私達家族は、基本的には仲が良いが、よくケンカをする。よく言い合いになるのだ。言い合いになると、いつも、私は言い返してしまう。または無視。言い返してしまった後は、いつも後悔する。自分の部屋に戻り「なんであんなこと、言ったんやろう」と自分が嫌になる。私のことを思って言ってくれていると分かっているのに、素直になれない自分が腹立たしくなる。
 私達家族のケンカは長期戦ではなく、短期戦だ。ひどく言い合いしても、ご飯を食べる時など、次に顔を合わせた時には、元通りになっている。だから、私はいつも同じ事を繰り返してしまうのだ。
 先日、家族についてのテレビを見た。家族の一人が病気で、みんなで助け合って生きて行くという話だ。そのテレビを見て、いつも何気なく家族と送っている毎日は、とても幸せな事だと思った。自分の家族を、もっともっと大切にしたいと強く思った。いつ、こんな幸せな日々が終わってしまうかは、誰にも分からない。これから先もケンカや言い合いは、絶対にあると思う。だけど、次は自分の気持ちに素直になりたい。そして、親孝行を少しでもしていきたい。
 あともう少しで、母の日だ。1ヶ月後には父の日もある。少し照れ臭いけど、日頃の感謝の気持ちを伝えたい。
 ずっとずっと、家族みんなが元気で健康で、時々、ケンカもするけれど、仲良しで笑顔が絶えない毎日が続いて欲しいと思う。それが私の一番の願いだ。
 一人っ子でわがままで、言うことも聞かない、こんな私だけど、お父さん、お母さん、これからもずっとよろしくね。いつもありがとう。ずっと大好きです。  


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2012年05月13日

私の家族/本当は、

 「お母さん」、と私が呼ばない日はありません。何かと「お母さん、お母さん」と言うのに、文句を一人前に言います。「言わなきゃいいのに」と思いますが、やっぱり言ってしまいます。でも、普段絶対に言葉にはしませんが、私は母が大好きです。
 母はちょっと雑な所がありますが、優しいです。私は料理やお菓子作りが好きで、よく作ります。たまに「失敗したかな」と思う出来のものがあります。でも、母はいつも「そんな事ないよ、美味しい」と笑顔で、少しオーバーなくらいに言ってくれます。
 そんな時、涙が出そうになることがあります。私が口応えをしたり、八つ当たりみたいなことをしても、母は黙って受け止めてくれます。そして、いつも後になって、すごく後悔しています。そんなことなどを思い出して、申し訳ない気持ちでいっぱいになるからです。
 私は、県外から芸短に入学した友だちを見ていて、「お母さん」と呼んだら、すぐに応えてくれる距離で生活出来る幸せや、母の優しさを改めて感じました。
 4月から私は新しく大学生活を、母は仕事が新しい職場に変わり、同時に新たなスタートを切りました。今はそんなことはありませんが、学校生活に慣れてくると、きっとダレてしまうことがあると思います。そんな時は、同じスタートから始めた母の姿を見て頑張っていこうと思います。
 もうすぐ母の日です。今年は日頃言えない思いを、ちゃんと伝えようと思います。
 「お母さん、いつもありがとう。そして、ごめんね。もう少し時間が掛かりそうです。ちゃんと安心してもらえる、しっかりした大人に、一日も早くなれるように頑張ります。なので、これからも見ていてください。ずっとよろしくお願いします」  


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2012年05月12日

私の家族/危険な姉

 姉は僕にとっての危険人物である。正確には、歳が二つ離れた二番目の姉。まず僕に対する口の悪さが異常だ。元々、思ったことをすぐに口にする。それが妙に僕の心をえぐってくる。言われたくないことを、場所も選ばず空気も読まず、まるで針の穴でも通すかのように、射抜いてくるのだ。もうなんだろう、むしろ、ほめたくなってくる。
 次に、極度の頑固者だ。小学校低学年のときは、クラスで一人だけ泳げなかったらしい。それからというもの、当時は僕と父と姉で一緒にお風呂へ入っていたのだが、彼女はバタ足の練習をしてお湯をあふれさせ、一緒に入っていた父に叱られた。ちなみ、いまだに泳げない。
 最後に――。これがもっとも厄介。かなりの天然であることだ。突然、背後からバシッと肩を叩かれて、「ヒッチハイク、ヒッチハイクー!」と言われたとき、あぜんとした。何言ってんだこいつ。聞いてみると、どうも「スキンシップ」と言いたかったらしい。どう言い間違えたらそうなるのか分からないが、だからこそ、姉は毒舌家なのかもしれない。このときは本気でそう思った。
 しかし、どうしようもなく危険な姉にも、長所と呼ばれるものは存在する。僕が唯一、彼女に関心を持てることでもある。それは『自分がやると決めたことは何が何でもやり抜く』精神だ。姉は今、鹿児島の大学に通っている。実はこれ、親の反対を押し切ってのことだ。学力的にも厳しかったらしく、彼女は家では部屋に籠もって、机に向かう生活を一年間続けた結果、合格を手にした。
 姉が僕に「へたれ」「マヌケ」と罵倒するのも、いつも真剣な姉だからこそだ。怠け癖のある僕を鼓舞してくれているのかもしれない。そう考えると、姉の毒舌も少しは可愛く思えてきた。  


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