2012年07月25日

今日は誰かの明日 2125088

 「命は始まった時からゆっくり終わっていくなんて信じない ぼくが生きる今日はもっと生きたかった誰かの明日かもしれないから」。これは私の大好きなかりゆし58の「さよなら」と言う曲の一部である。昨年3月11日、一瞬にして我々の「大切なもの」を奪った東日本大震災。私はこの震災を通して多くの感動を貰った。同時に忘れていたものに気づけた。
 当時、私は高校2年生。放課後は毎日バレーボールをして、仲間と一緒に楽しく汗を流していた。あの日家に帰り、テレビをつけるとすべてのチャンネルで地震のことを報道していた。津波が堤防を乗り越える。次々に家が流される。車も人も……。見渡す限りに広がる緑色の田んぼが一瞬にして、木材などに浸食され、不気味な色へと変わる。テレビ画面の端では家から煙が出ている。「なにこれ、本当に現実?夢じゃないの?」。私はその光景が信じられず、テレビから離れられなかった。
 時間が経つにつれて、100人、200人と死者・行方不明者の数が増える。薄暗い体育館は、お年寄りから子供まで多くの人で溢れていた。「さっきまで一緒だったのに…」。誰かが泣きながら言っていた。「家族がいない」。不安そうに言っていた。鳴き声と溜息、不安と恐怖でいっぱいの体育館はどんなホラー映画よりも迫力があった。さっきまで一緒にいた人、さっきまでしていたこと、さっきまであったもの、「さっきまで」はもうない。これからもずっと。今日できたことが明日もできるとは限らない。
 震災から1年がたつ今でも、原発の問題、がれき処理受け入れなど、耳が痛くなることばかりだ。しかし、私が生きる今日は、誰かの明日なのかもしれない。そう思ってこれからの毎日、どんなに苦しくても胸を張って今を生きていこう。



Posted by 芸短ネット演習 at 13:30│Comments(0)
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