2012年07月18日
日本語表現I/感動したこと(7月9日再提出)
「Life」
先月、親戚のおじいちゃんが86歳で亡くなった。肺ガンだった。
私はおじいちゃんを思い出すとき、笑顔の表情が浮かぶ。それはきっとあいさつ
にあると思う。あいさつをすると、何故かおじいちゃんはこちらを見て、ただ「に
こにこ」と微笑むだけだ。でも私はその優しく穏やかな表情が好きだった。
ガンが見つかったのは、亡くなる7カ月前の昨年11月。持病の喘息が悪化し、
病院に行った際発見された。その時すでに末期だった。手術をしても効果は期待で
きない為、自宅療養を勧められた。
ガン告知を受けてもおじいちゃんはこれまでと変わらなかった。煙草を医師に厳
しく注意されながらも吸い、農作業までしていた。だから私は、残された時間があ
とわずかだという事を忘れてしまっていた。
亡くなる2週間前に入院した時、行けたはずのお見舞いに私は行かなかった。と
言うより、行けなかった。弱り、苦しんでいる姿を見るのは辛かったからだ。しか
し、その事を今すごく後悔している。失くしてしまってからでは遅すぎるという事
を思い知った。
葬儀も終わり、納骨の日を迎えた。納骨が無事終わり、ふとお墓の傍を見ると、
瓜のつるが見えた。かわいらしい黄色い花と小さな実を付けていた。コンクリート
の隙間にしっかりと根を張り、悪条件の中でたくましく育っていた。一生懸命太陽
に向かってつるを伸ばし、その時を力強く生きる姿は、キラキラとまぶしく思え
た。そして何故かおじいちゃんを思い出させた。人から何と言われても好きな煙草
を最後まで吸い、自慢の野菜を作り、めいっぱい自分の人生を生きた姿に似ている
気がした。
私は、亡くなってしまった命の分、新しい命が生まれているという事を実感し
た。命には限りがあるから生きている事が素晴らしく、輝いて見えるんだと思っ
た。そして長さより、どう生きたかが大切なんだと感じた。自分に後悔しないよう
に、幸せだったと思えるように、これからを歩んでいきたい。
先月、親戚のおじいちゃんが86歳で亡くなった。肺ガンだった。
私はおじいちゃんを思い出すとき、笑顔の表情が浮かぶ。それはきっとあいさつ
にあると思う。あいさつをすると、何故かおじいちゃんはこちらを見て、ただ「に
こにこ」と微笑むだけだ。でも私はその優しく穏やかな表情が好きだった。
ガンが見つかったのは、亡くなる7カ月前の昨年11月。持病の喘息が悪化し、
病院に行った際発見された。その時すでに末期だった。手術をしても効果は期待で
きない為、自宅療養を勧められた。
ガン告知を受けてもおじいちゃんはこれまでと変わらなかった。煙草を医師に厳
しく注意されながらも吸い、農作業までしていた。だから私は、残された時間があ
とわずかだという事を忘れてしまっていた。
亡くなる2週間前に入院した時、行けたはずのお見舞いに私は行かなかった。と
言うより、行けなかった。弱り、苦しんでいる姿を見るのは辛かったからだ。しか
し、その事を今すごく後悔している。失くしてしまってからでは遅すぎるという事
を思い知った。
葬儀も終わり、納骨の日を迎えた。納骨が無事終わり、ふとお墓の傍を見ると、
瓜のつるが見えた。かわいらしい黄色い花と小さな実を付けていた。コンクリート
の隙間にしっかりと根を張り、悪条件の中でたくましく育っていた。一生懸命太陽
に向かってつるを伸ばし、その時を力強く生きる姿は、キラキラとまぶしく思え
た。そして何故かおじいちゃんを思い出させた。人から何と言われても好きな煙草
を最後まで吸い、自慢の野菜を作り、めいっぱい自分の人生を生きた姿に似ている
気がした。
私は、亡くなってしまった命の分、新しい命が生まれているという事を実感し
た。命には限りがあるから生きている事が素晴らしく、輝いて見えるんだと思っ
た。そして長さより、どう生きたかが大切なんだと感じた。自分に後悔しないよう
に、幸せだったと思えるように、これからを歩んでいきたい。
Posted by 芸短ネット演習 at 23:45│Comments(0)
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